プロフィール

初めまして、Fujikoです。

札幌出身・魚座・O型

本好き・漫画好き(ただし日本語に限る)

テニス好き。高校時代は3年間弓道を。その他たしなむスポーツは、北海道というお土地柄、スキーとゴルフ。

主にドイツに来てからのプロフィールを簡潔にお伝えしようと思ったのですが、来独した2000年から紆余曲折があり、それなりの長さになりました。語学ゼロから始めて大学卒業、就職して社長を務め、本業の傍ら、新規事業を立ち上げ繁盛店にした後、退職決意、そして新しい道模索までの話です。

すでにプロフィール内で、かなりドイツ生活について触れていますので、私の体験を通してドイツという国を感じて頂けると幸いです。

日本

札幌で生まれる。

子供のころ、内向的な性格を心配してか、小学校3年生の時に親が買い与えた、ある名作漫画にはまり、その後、漫画と活字大好き人間に育つ。

小学校、中学校、高校、短大と進み、その後就職へ。

なんと、小学校から就職先まですべて札幌市の同じ区内。

職場では経理課所属。10年勤務後、仕事も一通り覚えたし、何か別のことを始めてみたい気持ちが強くなり、一度人生リセットということで退職。

せっかくの自由を有意義に過ごそうと、一度は経験したかった海外生活を実行することに。海外生活を通じて自分の何かが変化するのか興味があった。

滞在先として、希望の英語圏以外、更に滞在費が安く、大学の学費もかからないドイツがしっくりきた。

ドイツへ語学留学

1年間の語学学校ビザを取得し、2000年に語学ゼロ状態でドイツのハイデルベルクに。”一年間の人生の夏休み”としてハイデルベルクの語学学校で、ドイツ語でドイツ語を学び始める。

ハイデルベルク大学受験

一年の語学学校ビザが切れた後、たった一年でドイツはわからないと大学受験を試みる。しかし日本と違い、ドイツの入試は申し込めば誰でも受けられるわけではなく、学科によって事前に大学からの受験許可が必要であった。

日本で専攻していた心理学学科で大学受験申請をするが、”外国人学生は一年に数人しか受験許可を出しません、残念ながらあなたの申請は却下されました”、という通知が。大学に入学できなければビザ延長も不可能なため、外人局から日本帰国を促される。

弁護士の助力のもと外人局と交渉。その結果、次の大学入試試験に落ちたら二度目の受験はせず日本に帰国するという条件のもと、特別措置で半年後の次の大学入試までビザ延長に成功。今度は専攻学科を言語学(主専攻)・文学(第一副専攻)・日本学(第二副専攻)に変更し、無事受験の許可を得る。

競争率が激しい中、奇跡が起き試験合格、無事入学許可を得る!

しかしすぐには大学には入学できず。

というのも当時のドイツの大学は通常19歳で入学、しかも日本やアメリカのように4年制の学士卒業制度は存在しておらず、存在するのはいわゆる6年制の修士課程のみ。そのため短大卒の経歴者は”2年間の短い勉強期間では大学入学のための基礎知識が足りない”と判断され、一年間、大学入学資格専用の学校に放り込まれる。

学校の厳しいカリキュラムの元、一年間毎日朝8時から歴史・文学・地理等の授業を受ける。クラスメートはみんなドイツ語達者。たまにドイツ語母国語の人もいたりする。

私、言語センスない、年とってゼロから始めるとこんなもんなの???明日までに文学の本一冊読んでこいって、私の語学力じゃ明日まで寝ないで読んでも無理ー、っていう状況が毎日続く。

試験漬けで周りの半分以上が留年していく厳しい状況、外人局との取り決めで”留年即日本帰国”の私は後がない。数々のテストをなんとか乗り越え留年なしに、最後の卒業試験も無事クリア。また奇跡が起きた!ここでかなりやり遂げた感があるが、本当の大学生活はこれから。

大学生活

厳しい学校を一年乗り越えた今、大学に入ってしまえばこっちのもの、かと思いきやそう甘くはなかった。取る単位も多く、読む本も半端なく、発表やレポートもしょっちゅうあり、しかもどの教科も2度試験に落ちたら再度試験のチャンスはなし。

これは外国人じゃなくてもかなり厳しい。当時のドイツの大学制度は学士がなくて修士のみ。

つまり入学したら修士を卒業するまで終わらない。6年間で単位を取り、半年卒論、半年試験づけの卒業まで7年かかるのがスタンダード。

ドイツは大学進学率も日本ほど高くなく、卒業する人は更に少ないのも納得。30歳近くまで大学に通っている人も珍しくない。

ドイツは小4である程度将来の進路決めるし、勉強はしたい人だけ大学コースを選択すればよし。確かに勉強タイプじゃないとこの大学生活乗り切れないし、全員が大学行く必要もない。

周りの大学生たちはそんなスケジュールでも時間うまく使って息抜きしてたことに感心。

ユーロ打撃

この時期はドイツマルクがユーロになり、物価高にも見舞われた。1マルクショップが1ユーロショップになり物価が2倍に!更に日本円で生活していたのでユーロ高打撃も重なり、もっときつい状態に。感覚としては3倍以上の物価高。大学生活のかたわら、ベビーシッターや、5年ほど二つの補習校で先生として掛け持ちで働いたり。

子供たちがドイツで日本語を習得する難しさを痛感したのもここ。バイリンガルって簡単になれるもんじゃない。これだけで本が一冊かけるくらい、難しいことがたくさんある。。。

日本人が少ないからなんだかんだでみんな知り合いに。面白い経歴の人もたくさん。日本にいたら知り合えなかったであろう人たちと普通に知り合えるのも面白いところ。

初の日本一時帰国

この間に初めて3年ぶりに日本に一時帰国。ネットも発達しておらず日本とたまのメールやりとりがせいぜいのこの時代。長年住んでいた札幌なのに、道路の名前などすっかり忘れており焦る。日本語もあまり話してなかったせいか口もうまく回らず。コンビニの店員さんが言っていることもよく聞こえない。3年前と店員さんの対応ルーチンが変わってる。あれってかなり想像で理解していたんだと気づく。

日本の食事の美味しさには改めて感動した。日本にいたころは気づいてなかったよ。

病気に・・・

5年くらいドイツでそんな学生生活を続けていたところ・・・

病院知らずで健康体が取り柄だったのに、ついに病気にかかる。マイクロウイルス湿疹といって、足や手がやけどみたいにただれる。最初は虫さされかと思ってほっておいたらどんどん広がって大変なことに。

痒さをごまかすために体中たたいたら足が青あざだらけになり、医者に虐待でも受けているのかと心配される。ストレスが原因でかかる病気であった。本人は自覚なかったのに知らないうちにストレスが・・・。痕がなくなるまで数年かかったなー。

大学卒業

6年間で無事大学の単位を取り終え、その後は一年かけて試験勉強。

卒論に半年、残りの半年で筆記試験と口頭試験。各専攻ごとに教授と話し合ってテーマ決めて、5時間の筆記試験とか1時間の口頭試験とかかなり厳しい。ここまで頑張ってもここで2回落ちたら大学卒業できない厳しさ。ここまで来て卒業できなかったら残念すぎる。もう真剣。

無事修士卒業出来た時はとっても嬉しかった。これは私にとって三度目の奇跡。

ハイデルベルク大学の卒業証書

卒業証書。Magisterというのが当時の「修士課程」の事です。

 

卒業証書をもらった時は感動しました。

運命の分かれ道

大学卒業後に一年間”仕事探しビザ”を取得しドイツ滞在をもう一年延長。その間に職が決まらなければ日本に帰国することに決める。

たまたま、ハイデルベルク大学の東洋芸術学科の香料研究者が助手を探しているということで、そこで週数回助手として働きながらちょこっと英語などを勉強しつつ就職活動。

香料研究者の助手として働いている間に日本独特の“香道”を知りそれを上司である研究者に紹介する。上司は大変興味を持ってくれてワークショップに香道研究者を招待。それについての論文も作成。私も貢献者ということで協力者として論文に名を連ねる。

ハンブルクへ就職

2010年、香料のワークショップの準備中、ハンブルクのパソコン関連の会社から内定をもらう。もとの起業者は日本人だけど、ハンブルクの会社自体はドイツの独立したGmbH法人で日本人は社長のみ。実のところ香道をテーマにした博士論文の準備もしていたので迷うが、内定を受ける。

10年住んだ南ドイツのハイデルベルクから、北ドイツのハンブルクへ引越し。労働ビザの取得、引越準備、家探し、お別れのご挨拶、6週間で全部の準備を終えバタバタと引越し。普段はてれてれしているがここでは火事場の馬鹿力発揮。労働ビザを取れたのも引越しぎりぎりのタイミングでラッキー。いい勘してたと自画自賛。

PC会社で秘書・通訳のはずが・・・180万都市で唯一の店を立ち上げ、行列のできる店に!

ハンブルクで10年ぶりの社会人。つい張り切って全力で仕事集中。自作パソコンパーツの開発販売の会社ではあるけど、ドイツ事務所の役割は販社。そして私の仕事内容は商品とは直接関係ない経理財務、ドイツ語通訳、ビザ関係、秘書業務、貿易等々のペーパーワーク。作業量は多くても難しいわけじゃない。浮き浮きと新生活を満喫。

10年ほとんどできなかった趣味のテニスもここで再開。

(余談だけどドイツは国際大会たくさんやっている。色々見に行き放題。セキュリティも厳しくなく屋外大会では選手も気さくに話してくれる。フレンチオープンなんかも陸続きだから思い立ってふらっと計画もできる。)

ただ一つ気になったのはハンブルクの食事情。海のないドイツで珍しく半分海ともいえる大きな港がある。スーパーで売っている魚の種類は南ドイツよりは多い。でも日本人が少ないせいか日本食レストランがとても少ない。

しかもドイツの大都市には少なくても一つはあるラーメン店がハンブルクには一つもない。ラーメンは絶対ドイツ人に需要あるはず。札幌育ちの私としては味噌ラーメンをぜひドイツ人に広めたい。ないなら自分でラーメン店作りたいくらい。

何かの折に社長にこう言ったら、じゃあ会社がお金出すからやってみれば、ということで一人社内ベンチャー企画誕生。

素人の恐ろしいところ、実際この一言で私はラーメン立ち上げをスタートさせる。

最初はちまちま週末にハンブルクの食メッセに行ったり、大阪のヌードルメッセに行ったり。どこまで自家製にすべきか検討したり、ドイツは黒パン用の黒い小麦粉主流だからラーメンに合う小麦がそもそも存在するか等々、仕入れ問題。料理人さん探し、物件探し、役所の営業許可問題。物件の工事。料理人さんのビザ取得や住居探し。

なんせラーメン知らないドイツ人に説明するのも一苦労。役所も業者もどうしてそんなに大きなダクトやコンロが必要かわからない。私たちの希望のダクトの排気量があまりにも大きすぎる、計算違いじゃないかと言われたり。大きな工事は大家さんの許可が下りなかったり、困難続出。

本業傍らものすごい労力をだったが、どんなに労力使っても無事にオープンできる保証はないし、この手のものは結果がでないと全ての努力が水の泡。頭の中にラーメン店アイデアがわいてから3年くらい、実際行動始めてからも2年くらいはかかったかも。難産で物件は2店舗目、料理人は3人目で無事オープンできたのはまた奇跡。

オープン前にすべて試食

 

 

難産の末やっとオープン

 

 

幸い比較的早期に黒字展開できて、行列しないドイツ人も行列する程の店に成長したのもまた奇跡。会社に損だけさせなくて良かった・・・

社長病気にて帰国

しかし、ラーメン店オープンするかしないかの時期、社長が病気になり病院探しに奔走することに。ドイツの病院は予約制でどこもいっぱい数カ月待ちはザラ。電話しまくりで何とか早く予約の取れた医者に連れていくも病状は遅々とした改善せず。考慮の結果やむなく本人の希望のもと日本への帰国に同意。

しかしそのためには次の社長が必要。適任者はどこを見渡しても私のみ。

こうして社長業務を引き受けることに。永久ビザがあるので書類上の問題はなし。そういえば入社当時の最初の仕事が社長のビザ取得だったのを思い出す。ビザ取得は結構ややこしく、出来ない人はできない。(あれから一体私は何人の従業員のビザを取ったことか。移民問題で年々厳しくなってきていますが、色々コツがあるのです。)

それにしても、会社の入った時自分が4年後に社長になると誰が思っただろう。一歩一歩目の前のことを頑張った結果その先に次のステップが表れてくるんだなと。

社長の登録

社長の登録。ドイツ語でGeschäftsführer が社長という意味。

 

そして社長に・・・

社長業引き受けてわかったのは、孤独な仕事ってこと。相談者もいない。最終決責任者ってこういうこと。トラブル処理係でもある。営業、マーケティング分野等々今までとは異なる分野も。同じ会社で4年間働いていたのに知らなかったことがわんさか。

みているようでみていなかった。でもそこが面白いところでもあるけど。本当に新しい経験。とにかく毎日あっという間に時間が過ぎる。

ドイツは一般社員の有給消化は100%認められた義務だけど、経営者はそうじゃない。責任者は休暇中でも連絡可能でないといけない立場。PCと飲食店の異分野の両立うまくできてるのかな。ビジネスは学校と違って正解がない。試行錯誤の毎日が続く。

新しい道へ

社長を引き受けて3年。

毎日の生活の中で、だんだんこのままでいいのか疑問がわいてくる。

ラーメン店は幸い無事最初の黎明期を乗り越え軌道に乗った。

まだまだやるべき事はたくさんあるけれど、現状維持ならば既存スタッフでなんとかなるまでには成長している。本業のPC部門はもとは日本のメーカーとはいえ、ドイツ事務所の役割は販社としてヨーロッパ各地に商品を売ること。それならドイツ人に経営任せた方が効率よくない?

ここでは私の役割はまっとうしたんじゃないのかな、いつのまにか自然にそう思えた。

でも自分の思いだけで、ただ会社を放り出すのは無責任・・・。

などとつらつら考えていた2017年秋についに転機が。

新しい社長候補をみつけ、条件面でも同意。

かくして役所やその他の書類関係を全部整え、引き継ぎをし、12月末を持って無事退職。

やってきたことは全てそこにおいて、今また新しい道を模索中。

半年後、一年後どんな道を歩んでいるか未知の世界。

2000年に日本を離れた時と同じ気持ち。

先はわからないけど今を楽しみつつ進化中。

 

1年後

1年間の充電後、仕事上のご縁があり、デュッセルドルフに引っ越しが決定。

大手日系企業のドイツ進出に伴う、スターティングメンバ―として働くことに。

まさかこの時期に、と戸惑うくらいの素晴らしいタイミング。

何度目かの奇跡が起こりました。

 

これから先、人生がどう続いて何が起こるのか、自分でも未知数なのが楽しみです。