ハンブルク初のラーメン店【立ち上げから閉店までの思い出2015-2022】

2023年5月ドイツ

私は2010年から2018年末まで住んでいたハンブルク市内のある場所にいました。

2019年に他の都市に越してからも何度も訪れたハンブルクですが、

この場所に来るのはハンブルクを去って以来この日が初めてです。

目の前のガラス戸には英語とドイツ語で書かれたお知らせがありました:

「2022年12月を持ちまして当店はクローズしました。長らくのご愛顧ありがとうございました。」

Ramen Bar Zipang

ハンブルクの友人から聞いた噂はやはり本当でした。

それは、私が自らのアイデアで始め、2年以上かけて難産の末ようやく2015年3月にオープンすることができた、ハンブルクで初の日本人による本格ラーメン店「Ramen Bar Zipang」閉店のお知らせでした。

正直私がRamen Bar を離れ、2018年末に他都市へ越して以来、いつかこういう日が来るかもとは思っていましたが、あれから4年でそれが現実になってしまいました。

こんなに早く現実になってしまったのはコロナという誰も予想しなかったアクシデントによるものが大きかったと思います。

2015年にラーメン店はオープンしましたが、経営形態は私が働いている本業の組立PC用の部品メーカーの飲食部門という位置づけ。

PC部門の方で代表を務めていた私はラーメン店の店舗で働くことはできません。

そのため2015年のオープン前から、本業にできるだけ差しさわりがないよう、日常のラーメン店の内部業務に関してはルーチン化しており、オープン当初から私がいなくても通常の仕入れや営業は回るようになっていました。

お客さんはよく入っていてくれたので、大きなアクシデントさえなければしばらくその状態が続いたはずでした。

しかし今となっては想像でしかありませんが、日本人だけのスタッフでコロナ渦の中、次々と発表されるドイツ語でのルールを都度きちんと把握し、臨機応変に対応するのは難しかったのでしょう。

裏からバックアップしていたPC部門のスタッフは私以外は日本語ができる人がおらず、助けを借りたくても、PCスタッフとラーメン店スタッフのコミュニケーションも難しいものがあったかもしれません。

コロナ渦が下火になり、我々のラーメン店オープン2年後の2017年ごろから現れた他店のラーメン店が次々と再オープンする中、Ramen Bar はなかなか再オープンされませんでした。

2022年にようやっと他店より遅れて再オープンしたものの、ハンブルク在住の知人からの噂では、メニューにラーメンはなく、どんぶり物に変更、しかも週に数日しか営業されていないようで、それはもはやラーメン店とはいえるものではないように感じました。

2023年5月に店舗の前に行ったとき、どんぶり物メニューが貼ってあるのを見つけました。

やはり一時どんぶり屋として営業再開したのは本当だったようです。

しかしそれから数か月後、閉店のお知らせが告知されてしまいます。

閉店は残念ですし、思ったよりも早くこの日が来てしまったのは悲しいですが、正直これは予想の範囲内でした。

それより私が驚いたのは、閉店そのものよりも閉店のお知らせを告知した張り紙に書かれた会社名。

それは、私がかつて代表を務めていた組み立てPC用の冷却部品メーカーの名前でした。

しかも店舗に興味のある方は連絡下さい、と連絡先まで記載されています。

「どんぶり提供にした時点でてっきり他の飲食店に売却して経営方針が変更になったと思っていたのに、まだ経営がこの会社のままだったとは!」

ハンブルクで飲食に興味がある日本人はたくさんいると聞いていますし、その人達に経営権を売れば良いと思うのですが、考えればPC部門の方は今は日本語のできないドイツローカルスタッフしかいません。

これまた推測ですが、日本語だけのラーメン店とドイツローカルだけのPCパーツメーカーでは同じ会社とはいえ、協力しようと思ってもその辺の連携もうまく取れなかったのかもしれません。

ドイツ人のPCパーツメーカー社員だけでは、今から日本レストランの店舗売却しようと思っても、ハンブルクで飲食経営に興味のある日本人とつながれないのも想像に難くありません。

結果として2015年3月のオープンから8年弱でお店は消滅しました。

お店の前に立っていると、当時の事を色々思い出しました。

このラーメンバーのロゴも、右側の雨よけもそのデザインや取り付けに苦戦しました。

右上に見えるダクトがうまく動かなかったり、外の喫煙場所の煙が上の住民の階にいってしまい、対策を考えなくてはいけなかった事。

この看板も、PCパーツ会社でデザインやWEBを担当してくれていた同僚が一生懸命作ってくれました。

ハンブルクで初のラーメン店ということで、ドイツ人の工事関係者も役所関係者も、ラーメンがどういうものか知らず、キッチンでラーメンをゆで続けるのにどれくらいの湯気が出るのか、どれほどの喚起が必要なのかわからない。

こんな小さいお店にしては必要なダクト排気量が大きすぎる、何かの計算違いではないのか、といぶかしげに言われたこと。

それでもかなり大きいダクトを取り付けたのになぜか全くキッチンが涼しくならない、

計算上は充分なはずなのに、実際排/吸気量の検査をしてみると、排気はそれでも基準近く動いているのに、吸気のダクトが全く働いていない。

そして充分な換気基準を果たせていなければ役所の営業許可は下りない。

ダクト会社の設置したダクトが最初に営業許可に必要な排気/吸気量を満たさず、実際キッチンでラーメンを茹でてみても、働けないほどの危険な熱気。

ダクト会社に改善を求めるも解決せず、そのためオープン予定は遅れ、最後は業者変更でダクト工事再開、無事オープンにたどり着けたものの、すでに支払ってしまった最初の業者は工事失敗の責任を認めず返金を拒否。

ダクト業者からの返金を求め、裁判を決意。

当時の記憶をよみがえらせながら資料集め、弁護士探しや証人依頼の準備から、裁判を開く準備が整い何度かの公判ののちに結果が出るまでに何年もかかった事。

実際に裁判所で戦った時は、記憶になかったことやちょっとした証言の矛盾をつかれ、へどもどしてドラマの被告気分を味わったこと(こっちが訴えているのに!)。

判決が出て、最後にダクト業者から損害の一部をやっと現金で取り戻したのは、なんとオープンの約3年後、私がこの会社を辞めるほんの数日前というギリギリのタイミング。

そして営業許可を得るには、規則上居ぬきレストランでないと難しいと思い知ったこと。

しかしレストラン砂漠のハンブルクで居ぬき店舗を見つけるのは至難の業だったこと。

自分が店舗内での労働ではなく経営する立場の場合、ラーメン作りを任せる店長さんはどんな人がいいのか。

CEマークのついた製麺機、もちもちしたラーメンの麺を作るのにふさわしい小麦をドイツで探すのに苦労したこと、日本では普通に使うであろうかん水が輸入禁止商品だと知って、別案を考えるのに苦労したこと。

大量の肉を定期的に仕入れるルートを探す事、ドイツにある材料でラーメンのレシピを完成させること。

うーん、この前に立つと、いつもはすっかり忘れている当時苦労したオープン前の記憶が次々とよみがえってきます。

閉店の知らせを前に思う事

私がハンブルクに来た2010年当初からあればいいな、と思っていたラーメン店。

なんと数年後にそれを自分で始めることになり、最初は一人でリサーチ開始、その後いろんな人に協力してもらって2015年にやっと立ち上がったRamen Barが2022年末で閉店。

正直、思ったより短命だったのは残念に思います。

でも、Ramen Bar 開店から2年後の2017年くらいからハンブルクに次々とできたラーメン店たち。

それらのラーメン店たちは今も健在です。

たとえそれが自分とは全く関係がないラーメン店でも全く構いません。

「食の砂漠ハンブルクにラーメン店を作りたい」というあの時の私の思いは実現されて、それは今でも続いている。

誰も知らない事だけど、私があの時始めてなかったら、もしかしてハンブルクには今でもラーメン店が全くなかったかもしれない。

Ramen Barを通じてハンブルクの人たちの食の歴史に一石を投じて、少しでもハンブルクの食の楽しみに貢献できたと思えばそれだけで満足です。

そしてこんな経験ができた運命にも感謝。

当時はそんなことは考えず無我夢中でしたが、今考えたら人生の中でこのような経験は、やろうと思ってなかなかできるものではありませんから。

ここからは当時に戻って少し思い出を紹介します。

2015年ラーメン店オープン当時

2015年3月のオープン直前、食事とドリンクの全種類のメニューを試食して味を確かめた時。

私の前の社長さんと一緒に二人で全部試食しました。前社長はアルコールを飲まない人だったので、酎ハイの割合決めは私が担当。

そして、これは2015年3月のオープン日。

後ろに頂いたお花と手にはお祝いのワインを持っています。

この時はもう前社長さんは日本に帰国後で、私一人だったのでしょうね。

WEBでのマーケティングと宣伝の成果もあり、幸い月次ベースでは最初から黒字化達成。

180万人都市のハンブルク初のラーメン店ということで、待っていた人たちが大勢いらっしゃったのか、ふらっと立ち寄っても連日行列で嬉しかったです。

ハンブルク初のラーメン店立ち上げまでの奮闘

かつての記憶は、正直立ち上げた私の頭からも薄れつつあります。

全部忘れてしまう前に、ここからはなぜ食べる専門で飲食業界に全く関わり合いがない私が、PC会社勤務に加えてハンブルク初のラーメンを立ち上げる事になったのか、そしてどれくらいオープンが難産だったか、そしてやっと立ち上げたラーメン店が大盛況の真っ最中になぜそこを去ってしまったのかなど書きたいと思います。

正直当時の記録があまり手元にないので、記憶で書いてしまう事もありますが、興味のある方は軽い読み物程度の感覚で楽しんでいただけると幸いです。

2010年10月ハイデルベルクからハンブルクへ

まずラーメン店立ち上げのきっかけとなった出来事から。

しばし寄り道にお付き合いください。

2010年秋にハンブルクに来る前、私はドイツの南西部にあるハイデルベルクという大学都市に約11年住んでいました。

写真はハイデルベルク大学の大学図書館。

ハイデルベルクに来るきっかけは些細な事。

ドイツへ来る前、日本で経理の仕事をしていた私は、仕分けから決算まで一通りこなせるようになり、この会社でこれ以上の成長はないと判断し、次のステップを求めて退職しました。

それまで海外旅行はあっても住まいは生まれ故郷の札幌から全く出たことのなかった私。

せっかく自由になったのだから、どうせなら外国に住んでみたいと今まで行った旅行先を含め住みたい国のリサーチを開始。せっかく行くなら今と全然違うところ、そして英語じゃなくて違う言語を一から学んでみたい。

そんな中で世界中の数ある国の中から、当時ユーロ導入前のマルクで物価も安く、大学の費用も無料、町の雰囲気もこじんまりして素敵でしかも勉強に集中できそうなドイツの西南のハイデルベルクを選択。

当時、弟がハイデルベルク大学で勉強中、彼の話を聞けたことも決め手の一つ。

弟は当時日本帰国の直前で、私と同時期にハイデルベルクに滞在したのは最初の3か月だけだったけれど、スタートダッシュを色々手伝ってくれた事は大きい。

それが2000年の秋の話。

そんなこんなで、まず最初の1年はドイツの語学学校ビザにてドイツ語の勉強。

語学学校ビザでドイツ滞在が許されるのは最長1年。

たった1年の滞在、このドイツ語力ではとてもドイツを去る気になれず、まだドイツに残って、ドイツの大学で勉強しようと決意。

ドイツのStudienkolleg に1年通う必要が生じてしまったけれど、クラスメートの半数は脱落するところ、足りない実力を努力と奇跡でカバーして、2003年春に無事に試験に合格してハイデルベルク大学に入学。

喜んだのもつかの間、どんどん単位を取って上に上がっていかないと下りない滞在ビザ。

当時のドイツは今でいう学士と修士(学部と大学院)がセットになっており、6年+1年(卒論+試験)の修士課程(マギスター/ディプローム)制度を採用中、つまり卒業まで7年かかる仕組み。

当然入学できたからといって卒業できるとは限らない。

授業には積極的に参加、筆記試験やレポートだけではなく、口頭での発表も多い。

読むべき資料も山のよう。

同じ試験に2度落ちたらその科目の単位取得は再受講不可。

卒業試験でさえ、2度落ちたらチャンスなし、そのまま退学。

だいぶん真剣に勉強しないといけないとはいえ、ずーっと勉強だけしているわけにもいかない。

ドイツマルクからユーロ導入後、物価高につきバイトも必須。

ベビーシッターや補習校の先生と、自分の人生で初めてこんなにたくさんの子供たちと一緒に過ごせた期間。

今思うととっても貴重な時間。

そんな生活の中、プレッシャーや運や人のお助け全部総動員して、やっと学士+修士を卒業した私は、大学卒業者がもらえる一年間の仕事探しビザを手に、大学の助手をしながら、就職活動開始。

このままドイツに残るか、はたまた日本に帰国するか、運を天に任せて、一年の仕事探しビザが切れる直前、ギリギリ運命のタイミングで決まった就職のためハンブルクにやってきた流れ。

人生のさいころの目は引き続きドイツ滞在を選んだようです。

急遽決まった北ドイツへの大移動。

家が決まらないと引越しできない、引越しできないと働けない、働けないとビザが取れない。

なかなか見つからないと言われる家探しを力技+奇跡でなんとかゲット、就職決まった8月末からこれ以上早くできないタイミングで家と労働ビザをゲットし、10月上旬には無事にハンブルクの住民に。

最初は普通のPCメーカーだった

ハンブルクの就職先は、日系のPC部品メーカー。

現社長が日本に帰国、社長交代に伴い、新社長の専門外の経理とドイツ語に強い日本人を探しているとの事。

それで条件ピッタリの私が採用されたのでした。

私にとっては日本で働いて以来、約11年振りの仕事復帰。

やっと大学を卒業してドイツで正式に住む権利を得た私は毎日ウキウキで働いていました。

しかし南ドイツから北ドイツに移ってきて予想外の事に遭遇。

北ドイツとはいえドイツはドイツ、ハイデルベルクとそれほど違いはないだろう、と思いきや、ハイデルベルクで充分ドイツ生活に慣れていたはずの私がハンブルクに来て驚いた事。

それは、ハンブルクのあまりの貧困な日本食事情。

なんだかわからないけど、行動範囲に気軽に日本食を食べられる場所がない。

180万人都市に日本人シェフの日本食レストランはたったの数店舗!

あまりの日本食恋しさに、日本に帰国する度に人と会う時間を減らしてまで山のように日本食を摂取し、スーツケースいっぱいの日本食を買い込んで戻ってきていたあの頃。

思えばハイデルベルクには徒歩で行かれる日本食レストランがあったし、日本人のお母さんたちもいっぱい。

ベビーシッターや、補習校の先生や近所のお母さんたちのお呼ばれや、誕生日パーティにご招待の機会に恵まれ、そこにはみんなが腕によりをかけて作った日本食が並んでいる、そんな恵まれた環境にいたんだなあ、と実感。

ドイツとはいっても全く日本食と無関係というわけではなかったのです。

しかし、ハンブルクでのメインは仕事をする事、しかも職場はハンブルク郊外。

歩いて行かれる範囲に日本食はなく、かといって自由時間は週末のみで、趣味のテニス以外のイベントの機会がなかなか作れません。

家はハンブルクの町中だったのですが、週末テニスに行くと、日本食を食べに行く時間がますますなくなってしまいます。

そんなこんなで北にポツンと離れたハンブルクは食の砂漠でした。

レストランの数がそもそも少なく、180万人の人口を抱えながら日本人が経営する日本食レストランはほんの数軒で所在地もばらばら。

ドイツで有数の大都市にも関わらず、デュッセルドルフはもちろん、フランクフルトにもミュンヘンにもベルリンにもシュツッツガルトにすらあるラーメン店がハンブルクにはなぜか一店舗もない。

飲食は食べる専門で全くの門外漢の私ですが、あまりのハンブルクの食の砂漠にショックを受け「この都市に一店舗くらいラーメン店を作ればいいのに。あったら絶対人気になるのに。」と引越し当初からずーっと思っていました。

とはいえ就職のためにここに来た私には当然本業があります。

日系ベンチャーの自作用PCのクーラーやファンのメーカーに就職した私は社長交代に伴う業務分担変更で、日本へ帰国する社長から経理・総務・貿易・ドイツ語通訳/翻訳+新社長補佐などバックオフィス全てを引き継ぐ事になりました。

最初の大切な仕事は新社長のビザ取得だった気がします。

日本での本業が経理で仕分けから決算まで把握している事、ドイツの大学卒によりドイツ語を習得した事、何度も延長を重ねた滞在ビザ取得経験など「経理+ドイツ語+長年のドイツ生活」の合わせ技を生かした仕事内容で、しかも長年の学生生活を終えて、久しぶりの社会人が嬉しくてやる気満々。

毎日幸せに忙しく働いており、ラーメン店のアイデアは頭の片隅にあったものの、会社内で口にすることはありませんでした。

ラーメン店をオープンするきっかけ

きっかけはいつだったでしょうか。

ある時、会社の創立者が会社の様子を見にドイツにやってきました。

日系のベンチャー企業なので創立者と言ってもまだ若く、私とそれほど年は変わりません。

その創立者がハンブルクに来独した際に、創立者/ハンブルク社社長/私で雑談中私がふとしたことから次の一言をいったのが始まりだったと思います。

「ハンブルクって180万人都市なのに、一軒もラーメン店がないんですよ。一軒ラーメン店があったら絶対繁盛すると思うのに。日本食環境が全然なくて、さみしいから自分で立ち上げたいくらいです。」

すると、その返事が

「そんなこと考えてたとは知らなかった。面白そうだからやってみればいいじゃん。お金は会社が出すからさ。」

「えー、いいんですか? それなら本当に始めますよ!」

「いいよ、その代わり誰もノウハウないから最初は一人でリサーチから始めることになるけど。」

「わかりました、じゃあちょっとリサーチしてみます。」

こんな流れで私はラーメン店を立ち上げる事になったのです。

流石ベンチャー企業、自由なものです。

私自身本当にハンブルクの食の砂漠に辟易していたので、経営的だけではなく、当事者として切実にラーメン店の一つでも作って少しでも日本食生活を豊かにしたかったのです。

ラーメン店だけでなはく、どんぶり物やとかカレー屋とかおいしいデザートとか、色々他にもアイデアはありました。

でも、最初に一番難しそうなラーメンから始めて、軌道に乗った後他のアイデアはいつでも始められるし、ラーメンは引きが強いからドイツ人にも人気になるに違いないと思ったのでした。

ラーメン店が一軒あれば、絶対ハンブルクで人気になるはず!

ハンブルクに来た2010年から思っていたことを自分が実現できるのです。

これから立ちはだかる数々の困難を知りもせず、その時の私は単純に嬉しかったです。

とはいっても今やっているPCの本業もなかなか忙しいので、仕事中にラーメン店の事ばかりリサーチしているわけにもいきません。

そもそもラーメン店開くといっても、私には今のPC会社の本業がありますから店頭に立ってラーメンを作るわけにはいきません。

まず、作ってくれる人を探し、店舗によいロケーションを考え、候補の場所で店舗を探し、ラーメンレシピを考え、仕入れルートを考え、役所の営業許可を取らないといけません。

一体何から始めればいいのか、と考えていたところ、たまたまその話をしたすぐの週末、ラッキーにもハンブルクで食のメッセが開かれていることを発見。

よし、それに行ってみよう、と食のメッセ訪問でラーメン店プロジェクトの第一歩を踏み出しました。

多分2012年だと思うのですがもしかしたら1年くらいずれているかもしれません。

ラーメンプロジェクト始動【食のメッセ in Hamburg】

張り切って食のメッセに行ってみましたが、一体何をリサーチすべきなのか、まだ自分でもさっぱりわかりません。

でも目的もなくうろうろしてはせっかく来たのに時間の無駄です。

そこで大きいところから始めようと、製麺機に注目しました。

ラーメンは主に麺とスープでできています。

日本でラーメン店をオープンする際、スープは店舗で作るのが多数派だと思うのですが、麺は仕入れと自家製麺のどちらもあり。

繁盛するラーメン店はおいしいスープが命。

だからまずラーメン店はスープ作りに全力を注ぎ、これぞうちのスープ!という究極のスープを作り上げる。

一方で麺に関しては、自家製麺の道もあるけど、麺のプロはむしろ外部にいて、プロの製麺屋さんから自分のスープにあった麺を仕入れる、というのが私のラーメン店のイメージでした。

私は札幌出身ですが、札幌で大好きで平成初期から会社帰りに車でずっと通っていた純連の味噌ラーメン、濃いスープと絡み合う黄色い縮れ麺の絶妙な絡み具合。

ラーメン店を開くにあたって、当初麺の事はそれほど深く考えておらず、仕入れでもいいかな、とぼんややりと思っていました。

しかし、仕入れと一言でいっても、このドイツで一体どこから?

なんせハンブルクには一軒もラーメン店がないのです。

製麺専門店なんてあるわけがありません。

そこで出てきたのが自家製麺のアイデア。

とはいってもラーメン用の製麺機などドイツにあるわけもなく。

ひょっとしてスパゲティ用の製麺機でもいけるのだろうか・・・

ハンブルクの食のメッセには幸いいくつかパスタ用製麺機が売っていました。

メッセなのでもちろん業務用の大きなものもあります。

それで最初は製麺機に的を絞って調査開始。

製麺機調査【ドイツで自家製麺か日本輸入か】

パスタの製麺機を色々みてまわります。

んー、できた形はラーメンと似ています。

細さの調整も可能だし、ものによってはストレート/縮れの具合も調整できそうで見た目は悪くありません。

メッセに出店している製麺機メーカーの人と話しても「大丈夫、これでラーメンもできるよ」と言ってくれます。

しかし、話しているのは欧州の人。この人たちはラーメンの事を知らないみたいです。ラーメンの事を知らない人に大丈夫って言われても、本当に大丈夫なのか一抹の不安。

そんなところに救世主発見!

あれは確か、そこに出店していたUKに本社がある、日系の製麺機メーカーさん。

その唯一の日系企業さんが、ハンブルクメッセで日本の製麺機を販売していたのでした!

これは嬉しい、さっそく話を聞きにいきました、すると・・・

「あー、パスタ製麺機でできる麺は形は似てるけど、ラーメンの麺とはコシが全然違うんです。

うちでも試してみたことありますが、結局代用できませんでした。

やはりラーメン店を開くならラーメン用の製麺機が一番ですよ。」

そんな衝撃的な返事が!

そうか、コシが違うのか、と納得のご返答。

ラーメン店を開くのに、麺がだめだったら台無しです。

この一言でパスタ製麺機使用はなし、ラーメン用製麺機の選択一つになりました。

そこでさらに衝撃の一言「やはり、ラーメン用の製麺機がお勧めです。うちのラーメン製麺機はCEマークも取得しているし、安心して使っていただけますよ。しかもUKに支店があるのでメンテナンスサービスもばっちりです!」

CEマーク?

ここで新たな課題が発生しました。

CEマークとは、商品がすべてEU(欧州連合)加盟国の基準を満たすものにつけられる基準適合マークの事で、EUに輸入するすべての産業機器や様々な消費者用製品が該当して、もちろん製麺機もその該当商品に属するそうです。

つまり製麺機をドイツで使いたい場合、どんな製麺機でも輸入できるわけではなく、EUの法律で定められた安全性能基準を満たす条件を備えていて、しかもそれを証明するCEマークがついていないといけないのです。

「欧州専用の基準のため、日本から輸入できる製麺機はそれほど多くないのです。私たちの製麺機にはそのCEマークがついています。」

さっそく勉強になりました。

そこに展示してあった製麺機は、製麺と麺の切断が一体化したすごくメカメカしいもので、見るからにお高そう・・・

こういう製麺機じゃないとCEマーク取れないのだろうか・・・

値段を聞くと確か2012年当時で500万円以上という驚きの価格!

んー、製麺機は大事とはいえこんなにお金をかけてよいものか・・・やはり日本から麺を仕入れる手段も検討するべきか、またはもう少しリーズナブルなCEマークがついた製麺機がないか、どちらにしてもリサーチが必要だな。。。

このように製麺機についてとても学べたハンブルク食品メッセ訪問になったのでした。

結局製麺機については、後日日本出張で行ったヌードルメッセにてCEマークがついた製麺機をやっと1台発見。

そちらが造りがシンプルで電子部分が少なく壊れにくそうな点、製麺と裁断の部分が2台に分かれているため作業しやすいのではないかという点からそちらの製麺機に決めたのでした。

(しかし2台に分かれている、すなわち場所を取る、ということが尾を引き、それが一店目の店舗をあきらめる事にもつながるのでした)

自家製麺ではなく日本からの麺輸入も考えましたが、その当時2011年の3.11の影響で日本からの食糧輸入が港でストップ、なかなか入荷できず、食料が港でだめになる、という事例が起きていました。

ラーメン店で必須の麺を輸入に頼っては危険だ、その判断から自家製麺に舵を切ったのでした。

(しかしこの選択も簡単ではなく、製麺機選択もさることながら、その後ラーメンにふさわしい小麦を欧州で探す事、輸入禁止のかん水の代用品探しなどに苦労したのでした)

ラーメン店にふさわしい場所は

次にリサーチを始めたのはロケーションでした。その当時はまだハンブルクに来て1-2年、会社が郊外だったこともあり、ハンブルクのロケーションをあまり知りませんでした。

しかし、ラーメン店をオープンさせるとなればどこで営業するのか、ロケーションはとても大切。

ロケーションがわからないなどは言っておられず、ハンブルク初のラーメン店にふさわしい場所を探し始めたのでした。

社用車で社長と一緒によいロケーションを巡ったりしていくつか候補地は見つけました。

しかし、その場所に飲食店を探そうとしてもふさわしい物件が全く見つからないのです。

複数の不動産屋をめぐっても、レストランを探している人の方が、空き物件より断然多い!

しかも業務用店舗のリストはハンブルクの不動産屋で共有しているとのことで、どこに行ってもう待ちリストの一番最後に名前を記入するだけで、当然ほとんどオファーがやってきません。

ロケーションも最初は色々理想を言っていたのですが、時間が経つとともにだんだん理想が下がってきます・・・

それでもなかなか、うんと言える物件が見つからないまま時が過ぎていく・・・

そもそものレストラン店舗が少ない上に、よい場所は空かないし、空きが出るのは大きすぎたり、地域がいまいちだったり、どうにもYESと言えない物件ばかり。

一体どうやって物件を見つければいいのか。

ハンブルクにレストラン自体が少ないのはこういう要因もあるんだな、と実感。

店舗決定? 【役所の営業許可取得の大きな壁】

そんな中たまたま日本人ネットワークで運よく見つけた日本食レストランを居ぬきで買うことに成功。

居ぬきなのでもちろん営業許可付き。

ラッキーと思ったのもつかの間、その後はトラブル続き。

小さい店舗に製麺機は入らず、製麺機用に考えていた地下には窓がなく、窓がない部屋で働くのは、労働環境面で健康衛生上許されず、結局そこに製麺機を置いて働くのは許可できないと労働局からのお達し。

こんなところに罠があったのか!

その後もちょっと建物を改装しようと思ったら、トイレ問題、換気問題、スペース問題などなど、建築局側から順守しなくてはいけない決まりが山ほど発生する事実がわかる。

どうも、改装なしなら現状維持の引き続きで簡単に営業許可が出るのに対し、少しでも改築となると、途端建築局やら労働局やらは出てきて、彼らの今の基準に合わせなくてはいけない、そして現代基準のレストラン用建築基準や労働基準の厳しい事といったら。

全てこれに合わせていたら改装金額莫大、そんじょそこらの個人営業店には払えない、払えてもいつまでも初期投資回収できないレベル。。。

さらに後からわかったことですが、居ぬきレストランを引き継ぐ場合は飲食営業担当局が単独で営業許可を出すことができ、担当者の指示に従えば営業許可が出るのです。

ただ担当者によって指示が違うので、必ずそのレストランの営業許可担当者の指示に従う事、そして担当者が配置換えになる前に素早く営業許可を取得しなくてはいけない事。

しかし、居ぬきではない場合や、レストランの改装をする場合には全く条件が違って、営業許可取得のハードルが一気に高くなるのです。

この場合は引き継ぎではなく、新規の営業許可取得に該当し、新規営業許可取得の場合は、営業許可担当局だけでなく、現在の労働基準や建築基準も満たさなくてはいけない事から、担当局が営業許可の他に労働局と建築局の3つに増える事。

つまり役所の3つの担当局の基準をクリアしなくてはならないのです。

しかもやっかいな事に、これらの各役所同志は横のつながりが全くない!

労働局はいいといったプランで建築局はダメという、建築局がいいといったプランを営業許可担当はダメという。

各局の折り合いつけるのはこっちの仕事。

一体どれだけ役所間の見解を聞きまわって全部の局がいいという改装プランを作ったことか。

設計士さんに何度の変更を依頼したことか。

しかも結局3つの役所を右往左往してみんなが納得したプランには、一つの小さなレストランとは思えない壮大な費用が。

それをやっと社内の許可を得て大家に申請したところ、なんと大家が「工事が多すぎ、許可できない」の却下回答。

結局この店舗は諦めるしかなかった。

この経験で、候補となるのは居ぬきレストラン一択だと心から実感。

しかも手に入れた物件は改装なしでラーメン店に使える状態にしないといけない。

製麺機用の場所も必要になる。

しかし、新しい店舗のあてはない。

一体どうすればいいのか。

このままラーメンプロジェクトは失敗に終わるのか。

ラーメンプロジェクトの大きな岐路。

そこで人生何度目かわからない奇跡が起きる。

店舗をあきらめてほどなく、偶然のめぐりあわせで、ある一つの元日本食レストランがオーナーが病気で長期休業中、ついに店舗を手放す決心をしたことを知る。

こんなチャンスはまたとない、と思いつつ今度は慎重に事前調査し、売買契約を結ぶ前に営業局へ問い合わせ、営業許可の取得条件を確認。

その結果、いけるという判断のもと、売買契約締結。

そして、そこが最終的にオープンしたRamen Bar の店舗となったのでした。

(その物件も簡単にオープンとはいかず、特に前述したダクト問題ではオープン後も裁判に発展し、結局やっと片が付いて若干の補償を受け取ったのは、約3年後の私の退職直前となったのでした。)

人探しの苦労

料理人さん探しもとても苦労しました。

まずどんな人を探せばよいのか。

料理人さんにとってラーメンは料理ではないようで、料理人さんを探してもラーメン経験がない人がほとんど。

とはいえ、日本でラーメン屋勤務の経験があっても製麺経験、たれやスープのレシピを知っている人は皆無。

ドイツにいる日本人から募集するのか、はたまた日本から募集をかけるか。

結局一人目は日本で面接をして採用したものの、独立精神が強すぎ、会社の組織人としてのチームワークがどうしても折り合いがつかず。

二人目はイタリアで料理人経験のある日本人を採用したものの、2店舗目を見つけてここから始められるというタイミングでなぜか退職。

三組目はドイツ語がある程度できて料理もできる人をまず採用、その後ドイツ在住の料理人を店長として採用。この二人組コンビがうまく回り、やっとオープンまで辿り着いたのでした。

一口に料理人さんにもいろいろなタイプの方がいました。

基本はシェフとして店舗を回すわけですから、一国一城の主でリーダーシップがなくてはいけない、ただし今回のように、企業の一部として飲食経営する場合には、経営陣の意向に沿って行動してもらわなくてはいけない場合もある。

しかし、料理に関してはプロなわけだから、経営の意向に沿いながらも時にはプロとしての意見を主張する場合も必要となる。

店内の運営は店長としてシェフにお任せするわけだから、実際に店内を回せる人でなくてはいけない。

そこらへんの兼ね合いが非常に難しい。

日本と違い、他にラーメン店などないわけだから、外部委託などできるわけもなく、すべて店内手作りで、日本と勝手が違う事も多い。

それに加えて外国ならではの言語の問題も絡んでくる。

料理人さん決定において、言語は二の次とはいえ、全くできないと何もできない。

ドイツ語ができる社員を雇おうにも、日本語でシェフの指示が理解できないと日々の業務に支障をきたすという。

オープン後もあまりの盛況に、生ごみを捨てる場所が足りない、製麺した麺を置く場所が足りない、人が足りない、食洗器が壊れた、上の住民さんにオープンテラスの交渉、製麺用小麦の仕入れ先が潰れた、ダクトトラブルの裁判等々、やはりドイツ語で外部と折衝する場面は多く、それらはすべて我々裏方の仕事となる。

商売繁盛は喜ばしいし、シェフをはじめ中の人たちの頑張りがなければ成し遂げられなかったのはもちろんですが、裏方のこちらも常に課題がいっぱいだった。

2017年末のお別れ

オープンから約3年、ラーメン店は変わらず繁盛していましたが、後述する事情から私は2017年末を持って、本業のPC会社の代表をやめ会社を去ることを決意する。

ラーメン店の行方は気になったものの、形式としてはラーメン部門もPC会社が経営しているため必然的にこちらもこれ以上のお手伝いは不可で、なくなくお別れ。。。

PC会社退職は自然の流れというか、時代の流れの必然。

2010年の勤務当初から感じていたことが現実になった。

もともと自作用PCの冷却装置(クーラー/ファン)のメーカーだったベンチャー企業。

今はまだイケイケだけど、時代の流れはスマホ、ノートパソコンやタブレットの小型化に動いており、大きいデスクトップ型PCの需要は今後間違いなく落ちてくる。

もちろんゲーム用の高性能型やコスパ面からも需要ゼロにはならないとしても、小型化重視の傾向は避けられない。

今のうちに小型化対応の商品開発か、または別事業展開もしないと将来展望が見えない業種。

かといって商品開発に関して私ができることは何もない。

仮にいつか日本やその他の海外支店が苦しくなったとしても、ドイツだけでも生き残る手はないか。

自分が何かできそうな事はないか。

全く異業種のラーメン店を経営しようとしたのはそんな思いもあった。

ラーメン店をチェーン展開すれば、たとえPC部門が下火になってもカバーできるのではないか。

しかし現実はそうはうまくいかなかった。

全くの異業種のラーメン店オープンは力業で成し遂げたものの、初期投資額は予定以上、一店舗の利益だけではなかなかチェーン展開までの予算が出ない。

さらにPC部門の下降スピードは思ったより早かった。

私は代表とはいえ、営業畑ではなく売り上げを上げるわけではない。

ドイツに会社を立ち上げてから、3代続いた日本人社長だが、これを機会に立ち上げ当初に将来の方針として考えていたローカル化、現地営業に代表を任せるのがベストではないか。

私自身もこの会社で私ができそうなことは一通りやって、自然の流れでいったんここから自由になってもう一度自分のこれからの道をゆっくり考えたいという気持ちになった。

この会社に勤めて7年と少し。

最初はバックオフィス社員、その後CFO兼プロジェクトマネージャー、最後の3年は会社代表と非常に濃い7年で、目の前の事を一歩一歩やっていたら結果として、希望したとしてもなかなかできない経験をさせてもらった。

2017年末をもって退職。

就労中に永久ビザを取得していたので、生活するお金さえあればいつまでいても自由。

とはいえとりあえず期限を切って、その後1年間ハンブルクにて自分探しの自由時間を獲得。

ハイデルベルク大学卒業時と同じで、日本帰国も視野に入れるが、最後の最後で再び運命はドイツ滞在に舵を切ったようで、今度はハンブルクからデュッセルドルフにお引越し。

終わって思う事

こう思うとやりたいという気持ちだけで、ノウハウもなく始めたラーメンプロジェクト。

一回やり遂げた事とはいえ、あまりにも再現性がなさ過ぎてもう一度やれと言われても賭け要素が強すぎて躊躇するレベル。

オープンできなかったら可能性も充分にあったし、その時の会社に与える損害も心苦く、個人的にもとても悔いが残ってしまったと思います。

本当にあの時オープンできてよかったです。

一体何回の偶然や奇跡に助けられたことか。

個人的な思いとしては、30歳過ぎて新しい言語を習得し、厳しい大学の勉強を乗り越え7年に及ぶ修士課程を卒業できた事、

ラーメンプロジェクトを紆余曲折の末オープンまでこぎつけ黒字化した事、曲りなりにも会社の代表を3年務め、社長はトラブル処理係、たとえ自分のわからない事でも、まだ判断材料が整っていなくても、何らかの決定してどうにか会社を前に動かさなくてはいけない事、誰に相談してもどんな結論を出したとしても、最終的に結果の責任を負うのは自分なんだと、孤独なんだと心から思った事。

目の前の事に最善を尽くせば、次の道が見えてくること。

こんな経験ができたから、おかげ様で今ちょっとくらいのトラブルはものともせず、アクシデントが起きても比較的落ち着いて対処できるようになった事。

結論: 人生何が起こるかわからないから面白い!

Ramen Bar の歴史と共に個人的思い出につきあって頂きありがとうございました。

ハンブルクの事をもっと知りたい方はこちらもどうぞ:

ドイツで快適な生活を送るために

私がドイツでラーメン店を立ち上げる事ができたのも、裁判で業者と戦うと決めたのもすべてドイツ語を習得しているという事実があったから。

ハンブルクの会社で社長になったのも、ハイデルベルク大学を卒業したのもこれらの経験が何もかもドイツ語習得なしにはありえない事でした。

ついでにいうとその後デュッセルドルフに来て、今充実したドイツ生活を送れているのも全部全部一定レベルのドイツ語を習得したおかげ。

もちろん2000年の最初からこんな大それた結果を予想してドイツに来たわけではありません。

ましてやハンブルクで第一のラーメン店を開くなんて誰が予測したでしょう。

ドイツ語学習→大学→就職とその都度目の前にある課題に向かって努力したら結果としてこうなった、というだけです。

現地で生活していて日々実感するのは、現地の言語ができて損することは一つもないということ。

ドイツで何不自由ない生活が送れるのも、誰に頼ることもなく好きなことができるのも言語習得による成果が本当に大きいです。

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ハイデルベルク大学修士卒業・ハンブルクの企業で代表を務め、社内ベンチャーで異業種起業をして繁盛店にする。

記事執筆・翻訳通訳・ドイツ語個人レッスン経験あり。

 この記事へのコメント

  1. 人形遣い より:

    ドイツに滞在することになり、この記事に出会いました。日本人にとって(本当は全ての人にとってもなのでしょうが)、ドイツでの生活は不確定要素ばかりですよね。最初、切符の買い方すら分からなかったことを思い出します。同じく冒険のような歩みをされている方がいたこと、その中でなんとかなっていくということを知れたのは大きな励みになりました。ありがとうございました。Fujikoさんの生活がますます良いものとなりますように。

    • fujiko より:

      人形遣い様
      コメントありがとうございます。この記事が励みになったとの事、とても嬉しいです。
      確かにドイツは日本と比べて不確定要素がたくさんありますが、自分でどうにかする気があれば周囲の助けもあったりして
      最後はなんとかなる事、他の国の人と接するとドイツより不確定要素盛り沢山の国がまだまだある事、そんな事が肌で知れて
      細かい事はそれほど気にならなくなりますし、精神的にたくましくなりますよね。
      人形遣いさんのドイツ生活が充実した楽しいものになることを願っています。

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